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共通の価値観の喪失が不安をもたらす社会

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冷戦が終了して、2つの大きな価値観のうち、資本主義が勝利したのだと言われた時代もありました。またフランシス・フクヤマのような自由主義の勝利を叫ぶ人たちもいました。

フランシス・フクヤマに関しては、自由主義の勝利で世界が終わるという主張は変更されたようです。しかし大きな価値観というものがなくなった現在、どのように生きるかという根本的な問題が存在しているように思うのです。

自分はとくに専門家でもないし、詳しく議論を持っているわけでは無いですが、以下のような記事を読むと、いつも刺激される部分があります。そこで今回はそんな話を書きたいと思います。

gendai.ismedia.jp

 

共通の価値を破壊することに成功したポストモダン

ポストモダンは、今までの価値観のようなものを否定することには成功したと思います。しかしこうした価値観を破壊する事は簡単ですが、また新しい価値観を生み出すのはとても大変です。

共通の価値観がなくなって、各自それぞれ自由に自分の価値観を選んでよいとなった場合、自分1人が選んだ価値観が他者とのあいだでどのような評価になるのかというのはすごく不安なのです。

そこで自分の価値観と同じ仲間を集めようとします。ヘイトスピーチはじめ、自分が感じていることを他の人も感じているということに安心し、自己主張ができるようになるわけです。その際にその価値観やその主張が正しいかどうかというのは、まったく関係がありません。

自分の居心地のよいコミュニティ内でその価値観が共有されているのであれば、問題がないのです。結果として、共通の価値観を持ったグループがいくつも誕生し、相互に対立しあうという構図が成立するわけです。

 

www.gerge0725.work

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自由な選択という不自由

価値観が多様化するにつれて、私たちは自由な選択を迫られます。しかし自由な選択には、責任がセットだとされ、自分たちが取捨選択の責任を取らされるわけです。その際に「みんなが同じ選択をしたから自分もその選択をした」という主張はできなくなりつつあります。

そうした責任が問われるのは、前提として自由な選択を皆がしていることになっているからです。この自由な選択というのが非常に厄介で、実際には、ただある選択肢を選択しているだけであるのに、たくさんの選択の中から自由に選び取ったと考えられてしまうわけです。

選択に責任が伴ってくると、自分たちの選択が正しいことを証明しようとするわけですが、その証明は数の力を持って行われます。そこには何か根拠があるわけではなく、たくさんの人が選択したからという理由になるわけです。

そのため意見が異なる他者の主張を受け入れるということは、自分の選択を否定することになるため、なかなか難しいとなるわけです。

「開かれた、対立なき世界」で生きることに困難を覚え、あるいはそれに反発した人々は、再び壁を作り、「閉じられた、対立のある世界」で生きることを切望している。この壁を作り、「われわれだけの世界」を作ろうという欲望には、離脱の欲望が胎胚している。それは自分にとって、不快な、もしくは危険になるかもしれないような他者との関係から離れ、関係を断ちたい、という欲望である。換言すれば、それは他者と共存したくない、という欲望である。

世界中が「他者との共存」を拒否し「離脱」を求め始めた現代について(山崎 望) | 現代ビジネス | 講談社(6/8)

 

対話で価値を共有できない

もともとこうした問題は、今始まったことではなく、価値観が共有できないという問題は常に議論されていました。その解決策の1つが対話なわけです。しかしこの対話を重視する民主主義が、うまくいかないのでは?という話が出ています。

ここでは民主的で自由な対話の過剰さこそが、離脱への動機づけを生み出す。Twitterの世界と同様、「炎上」するよりも、ブロックをするなり、アカウントを消し「離脱」した方が賢明――そうした感覚が蔓延するかもしれない。

世界中が「他者との共存」を拒否し「離脱」を求め始めた現代について(山崎 望) | 現代ビジネス | 講談社(7/8)

今まで共通の価値観があれば、話し合わなくても済むようなことがたくさんあったわけです。たとえば会社に勤め、働き続けることで給料が上がるのであれば、サラリーマン生活に疑問を抱く必要はありません。

しかしサラリーマン生活は本当に幸せなのかと議論をしはじめてしまったら、その対話に終わりがないわけです。結局人それぞれという話になるわけで、そうした意見の人とはわかりあえないという結論になります。

対話そのものがムダになるということもありますが、そもそも対話をする気がないということもとても重要なわけです。対話をする気がなければ、対話による解決はありませんよね。

価値観が異なる人との対話による解決がない世界では、仲間内で確認する会話が行われます。つまり自分とは違う価値観を持っている人たちを、否定することで会話が成立するわけです。

こうした価値観の共有は、実は不安な気持ちを持ち続けるだけになってしまいます。

 

閉じられた息苦しさの中で耐えられるのだろうか

閉じられた空間の中で、価値観を共有しているだけだと、だんだんと苦しくなってきます。本当はこの価値観は間違っているのではないかと思っても、誰にも話せません。

こうした閉じられた空間で生き続けることの苦しさに直面しても、それでもなおその空間にいつづけなければならないという苦しさがあります。最初は、同じ価値観の人たちの集まりは非常に居心地がよいわけですね。

いちいち何か説明しなくても話ができるというのは楽なわけです。しかし一旦その価値観に疑問を抱いてしまったら、その空間に位置づけることは非常に苦しくなります。そうした状況を作り出さないためにも、開かれた空間にいることがとても大切なわけですが、そうした行動もまた不安になるので、なかなか難しいのかもしれませんね。もちろん自分も含めての話ですが。

 

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