いつか朝日が昇るまで

30代・40代の働く皆さんに役立つネタを提供しています。

ポストモダンと相対主義~ガブリエルはポストモダンを乗り越えたのか

スポンサーリンク

f:id:gerge0725:20190910141811j:plain

価値が相対化されて一体何が正しいの?と考えるときに、それぞれがそれぞれの「正しさ」を含んでいるという考え方があります。物事をひとつの方向から見るのではなく、さまざまな方向から見る必要があるという主張は確かにその通りだと思います。

しかし、人間同士が社会生活を共同で行っている以上、どこかでそれぞれの主張の「正しさ」を調整していく必要があります。どちらの正しさも認めていくことは「多様性」を確保する一方で、ヘイトスピーチのようなものも認めることもまた「多様性」であるとならないかと思っているわけです。

それでそんなことをずっと考えていたら、テーマは違うのですが、@finalventさんと以下のやり取りをして、今まで考えていたこともまとめてみようと思った次第です。

それで全くのど素人ではありますが、こうした相対主義を生み出すポストモダンについて考えたいと思います。それを考えるに当たり、マルクス・ガブリエルの哲学にも触れたのでそちらも紹介します。

ポストモダンとはそもそも何か

そもそもポストモダンということは一時期よく聞きましたが、最近はあまり聞きません。あらためてポストモダンとは何なのでしょうか。ちょうど東浩紀さんが説明しているページがあったのでご紹介します。

ポストモダン社会とは、全体性が失われた社会--より正確には、「全体性がある」との信憑が社会の構成員に共有されなくなった社会である。フランス の哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールは、それを「大きな物語」が失われたと呼んだ。

 それでは、この社会はどのような構造を取るか。ここで重要なのは、「全体性がなくなった」ことと「全体性があると信じられなくなった」ことをはっ きりと区別しておくことである。ポストモダニティという言葉は、前者ではなく、後者の認識を指している。ポストモダンになったからといって、全体性そのも のが失われるわけではない。

GLOCOM 「地球智場の時代へ-情報社会学シリーズ- 」(情報通信ジャーナル連載): 第9回 : ポストモダン 情報社会の二層構造

全体性が信じられなくなったのは冷戦体制も崩壊し、ひとつの信じるべき思想もなくなってしまったことが大きいでしょう。そのため、価値が相対化する、いわゆる「相対主義」が進んでしまったと考えられます。

相対主義が進むと何が起こるかというと、何が正しいかが決められなくなるわけですね。そこに絶対的な価値観が無くなるわけですから。

ポストモダンの何が問題か

ポストモダン思想は、相対主義の立場を取れば、権力だって相対化できると考えた。そしてそこから、どんな権力や制度も絶対的な根拠はもっていないという驚くべき論法が蔓延した。

でも哲学的にはまったく逆です。

相対主義の論理の核は、善悪、正しさも相対的なものにすぎず、その根拠などはどこにもない、という点にあります。しかしそうなれば、その究極の帰結は、善悪や正義・不正義を決めるのは、さっきも言ったように「力」の強いものだということにならざるを得ない。

社会思想の分野でも、相対主義の蔓延は、問題解決の放棄にしかならないんです。

20世紀の哲学は「哲学の墓場」である——新たな原理の構想に向けて(竹田 青嗣) | 現代新書 | 講談社(3/3)

おお、竹田先生、お元気のようで何よりです。1年前の記事なので今も元気であってほしいです。そんな話はさておき、相対主義が進む先には何があるのか何ですが、竹田氏はそこには力の解決しかないとしているわけですね。

確かにその帰結は分からないでもないし、日本でもポストモダンが左翼運動化していて、結局は権力闘争にようになっている意見もあります。しかし、そこには統一的な思想はなく、ただ反権力でのみのつながりになっているという見方です。

「八〇年代」を無視して現状だけから見ると、“〝現代思想”〟あるいは“〝ポストモダニズム”〟とは実は、疎外論的な「新左翼」をさらに先鋭化した「新・新左翼」のことだった、と言ってもおかしくなさそうな雰囲気さえある

仲正昌樹.集中講義!日本の現代思想ポストモダンとは何だったのかNHKブックス(Kindleの位置No.4142-4147)..Kindle版. 

集中講義! 日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか (NHKブックス)

集中講義! 日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか (NHKブックス)

 

しかし、こうしたポストモダンにさっさと別れを告げて、正義論に欧米はシフトしているように見えて、そのため相対主義の問題はあまり語られていないように思えます。ここら辺は素人なので分かりませんが、正義をどのように決めるのかという公正な正義について考えているのです。

それは民主主義社会で価値が多様化しようとも決定をしなければならないからだからでしょう。その際には公正さとは何かがもっとも重要になるのです。しかし、それでも現実社会を見ていると公正な正義とは何かを常に考えさせます。

以下の記事でも書きましたが、「正しさ」を求める争いは簡単に収まる気配はありません。そういう意味では相対主義は克服されていません。 

www.gerge0725.work

そもそも私がなぜ先のツイートのやり取りをしたかというと、この問題があるからで、コンテクストが多様化したとしても、その先にはひとつのものに収斂せざるを得ないはずだと思っているからです。

まあしなくていいよねという主張はありますが、ヘイトスピーチのような言説に対して何か主張するには、「それはダメである」という根拠が必要になってくるはずです。そんなことを考えている時に、話題のガブリエルの本に出会ったというわけです。 

話題のガブリエルはポストモダンを越えたのか

そもそもガブリエルを知ったのはNHKのテレビなんですね。それで話題の以下の本を買ったのですが、難しいです。何となく言っていることは分かるのですが、解説が必要です。

 

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

 

マルクス・ガブリエルは日本にも来ていてその際にインタビューを受けているんですね。その際にインタビュアーであった浅沼光樹氏はその主張を以下のようにまとめています。

ガブリエルの哲学―これを彼は〈新しい実在論〉と呼ぶ―は二つの基本思想からなっている。一つは〈世界は存在しない〉(無世界観)というテーゼであり、もう一つは〈存在するとは意味の場に現象することである〉(意味の場の存在論)というテーゼである。

マルクス・ガブリエル来日インタビュー 入門マルクス・ガブリエル 『なぜ世界は存在しないのか』(講談社)(聞き手・解説=浅沼光樹)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」

簡単に言うとそれぞれの「意味の場」においてそれぞれが「存在」しているということです。そのすべての「意味の場」を含む世界は存在せず、それは自然科学すらも例外ではないと考えています。

人間は誰もが一人ひとりの個人です。しかし、同じようにそれぞれ個々のものであるさまざまな意味の場を、私たちは共有しています。ですから、わたしたち一人ひとりが自分自身に閉じ込められているわけではありません。ましてや自らの自己意識に閉じ込められているのではありません。わたしたちは、無限に多くの意味の場のなかをともに生きながら、そのつど改めて当の意味の場を理解できるものにしていくわけです。(「なぜ世界は存在しないのか」273~274頁)

それぞれの意味の場にそれぞれが存在しているわけなので、それはすべて「真」というわけではなく、そこには「意味の場」をお互い理解できるものにしていく必要があるとも読み取れます。

さらに詳しく知るために以下の本を買いました。この本では私が関心のあるポストモダン相対主義についても書かれていたからです。

 

2018年10月臨時増刊号 総特集◎マルクス・ガブリエル ―新しい実在論― (現代思想10月臨時増刊号)

2018年10月臨時増刊号 総特集◎マルクス・ガブリエル ―新しい実在論― (現代思想10月臨時増刊号)

 

こちらではガブリエル本人のインタビューも載っていて、大変分かりやすいんですよね。このインタビューでポストモダンとの相違について以下のように答えています。

ポストモダンと呼ばれた人々が1960年代から80年代にパリで成し遂げたことと私がのべていることとの間には、きわめて多くの類似点があります。しかし、細かい点になると、きわめて多くの違いもあります。とりわけ、彼らの言う断片化は、結果的に、私の哲学の方法、合理的論証を否定します。理性が、彼らが疑うようなやりかたで、断片化するとは思いません。思うに、理性はまさに同質のものなのです。(15頁)

つまり理性を重視する立場であるので、先ほど書いた「意味の場」も共有されると考えているのでしょう。ただし、その「意味の場」を共有する際に自然と共有されるわけではないと思いますし、それぞれが「真」ではないわけですから、何が「真」であるかは決定する必要があります。

ただこれについてはよく分からないのです。しかし、ガブリエルの以下の発言を見ると「意味の場」は共有されるのが前提と考えているように見えます。以下はインタビューをした国分氏の言葉ですが、ここからも「意味の場」の共有ができるという前提が存在していると考えられます。

では我々は、ドイツから日本に来て、「私の今日の民主主義についての話は、ある意味でドイツ基本法第一条の一解釈だ」「この第一条が掲げる価値を否定しようとする人はいまのドイツにはいない」と堂々と訴えたガブリエル氏と同じように、この原理に基づいて堂々と今の日本の現状を語ることができるだろうか。絶対にできない。

哲学的になりすぎないこと~マルクス・ガブリエル氏との対談を終えて(國分 功一郎) | 現代ビジネス | 講談社(3/3)

それで結局この議論で相対主義は乗り越えられるのかという話なんですよね。そもそも「意味の場」がそれぞれ「存在」しているとすれば、それこそ相対主義なのではないかという疑問が残ります。その疑問は私の中でもいまだに解決されてません。

まとめ

ガブリエルの議論は自然科学批判が中心で、「意味の場」を人間それぞれが作っていくのだという主張が主な気がします。そのため生きる意味もそれぞれの人間が作っていくものだと考えているのでしょう。しかし、それでポストモダン、つまりは相対主義は乗り越えられるのかというと疑問が残ります。これは結局これからも検討課題になりますね。まだまだ先は長いなあ…。